大国ロシアは満州を占拠し、朝鮮半島にまで手を伸ばし始めました。このままでは我が国もロシアの植民地にされかねないと恐れた日本は、ロシアの朝鮮進出をくいとめ、自国の独立と安全を守るために、ロシアと戦いました。この戦争を「日露戦争」といいます。日露戦争では、1904年(明治37年)2月 から1905年(明治38年)9月の間、国民が力を合わせて必死に戦い、多くの犠牲をはらいながらも日本は勝利しました。
我が国を取り巻く当時の情勢
1894年~95年 | 日清戦争 |
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1895年 | 下関条約 |
三国干渉 | |
1902年 | 日英同盟 |
1904年~05年 | 日露戦争 |
1905年 | ポーツマス条約 |
20世紀初頭の列強によるアジア地域の支配図
欧米諸国では産業革命により商工業が発展し、安い原料や製品の消費地を求めてアフリカやアジアに進出しました。また、科学技術の進歩にともない軍事兵器も発達し、強大な軍事力を持ったイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、アメリカなどの「列強」は、次々に海外に進出し、抵抗することのできない国々を支配していきました。当時アジア地域で独立を保っていたのはシャム(現タイ)と日本だけでした。
1.清国への列強の進出
19世紀になるとイギリス、フランス、オランダなどの列強は東南アジアの植民地化をおし進めました。清国の弱体化をねらいイギリスは租借地を獲得し、またロシアは清国の内乱(義和団の乱)につけこみ、保護を口実に満州(中国東北部)を占領し、あわせて朝鮮半島にも勢力をのばしてきました。
2.日清戦争と三国干渉
朝鮮半島の自主独立を主張する日本と朝鮮半島を属国と見なす清国との対立が激化し、ついに明治27年(1894年)日清戦争が勃発しました。眠れる獅子と呼ばれた清国に日本が勝てるとはだれも予想してませんでしたが、日本の圧勝に終わり、翌年下関において「日清講和条約」が結ばれ、清国は日本に台湾を譲渡し遼東半島を割譲すること、賠償金を支払うことなどが決まりました。
三国干渉
ロシアは満州を占拠後、朝鮮半島に進出することもねらっていたため、日本への「遼東半島割譲」に激しく反発し、ドイツ、フランスとともに武力を背景に遼東半島を清に返すよう強く要求してきました。日本は、軍事力ではとうてい3国に対抗できないため、三国の要求に応じてしかたなく遼東半島を清に返しました。これを三国干渉といいます。
日本はこれを教訓として「臥薪嘗胆」を合い言葉に国力の増進、軍事の増強に努めました。
その後、ロシアは遼東半島に強固な要塞と軍港を作って陸軍と艦隊を配備し、朝鮮及び日本に対し軍事的な圧力をかけてきました。
3.日英同盟
イギリスはロシアの満州占拠及び朝鮮半島への進出をよく思っていませんでした。当時の日本は、迫りくるロシアの脅威に対抗するため、イギリスと同盟を結ぶべきか、あるいはロシアと協定を結ぶべきかで国論が分かれました。最終的に政府は日本の独立を保ち国益を守るためにはイギリスと同盟を結ぶ方がよいと判断し明治35年(1902年)日英同盟を締結しました。
でも子とそう吉の会議室 〜日露戦争〜
そうなんだ。日露戦争っていうのは、自分の国を守るためにやった戦争だったんだね。
でも、どうしてロシアと戦争なんかしないで、話し合いで解決できなかったの?
もちろん日本は話し合いで解決しようと努力した んじゃよ。ロシアが満州を支配することを認め、そのかわりに朝鮮半島や日本に手を出さないようにと、粘り強く交渉したんじゃ。じゃがロシアは話し合いに応じるどころか、シベリア鉄道を使って軍事力をどんどん増強して、朝鮮半島にも軍事基地を作り始めたんじゃ。それで日本政府は、このままでは力ずくで領土を取られてロシアに支配されると恐れ、やむをえずロシアと戦うことを決意したんじゃ。
そうなんだ。話し合いには応じてもらえなかったんだね。
でも、国力も軍事力も劣る日本がどうして大国ロシアに勝てたの?
ふむ。戦争が始まった時は、世界中のどの国も日本が勝つとは思わなかったんじゃ。しかし日本の国民は、列強の植民地になって苦しんでいるアジアの国々を見ていたから、同じようになってはいけないと思い、国民一人一人が力を合わせて必死に頑張ったんじゃ。それと、満州に居座って領土を拡張していくロシアを良く思っていなかったイギリスと同盟を結んだことも日本の勝利に大きくかかわっていると思うよ。日英同盟のおかげで、日本はロンドンなどで国債(国がお金を調達するために発行する債券)を売って戦いの費用つくり、軍艦など必要なものを買うことができたし、ロシアに関する色々な情報をいち早く手に入れて戦いを有利に進めぎりぎりだったけど勝つことができたんじゃよ。